私なりの時間に関する考察

メンタルヘルス
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時間は平等だが公平ではない

Xという作業にAさんは10分で済ますことができるが、Bさんは30分かかる。
生産性という観念で見るとAさんの方が効率がよく20分他の作業に当てることができる。
仮にXを延々とやる仕事に就いた時AさんとBさんが同じ労働時間だとするならば大きな差が生まれる。
労働時間を同じにすることは平等ではあるが、Aさんの方が1日にこなす量は増えてくる。
公平ではない。そこで給料に差をつけるならば公平性は生まれてくるだろう。

仕事において例え話を出したけれども、1日が24時間というのは揺るぎない平等性で、我々は普段の生活においても効率よくできる人とできない人がいて、効率よくできない人はその分他の時間を削られることとなり、その削る時間が睡眠なら健康に影響が出るだろうし、自己研鑽なら能力に差が生まれる。

うつ病がひどい時は寝ることさえまともにできない

私が壊滅的に時間を浪費しながら生活していると感じていたのが、うつ病の最悪期。
小見出しの通り、寝ることさえまともにできない。いくら寝ても寝た気がしないといったところだろうか。
しかし、寝る以外になにもする気が起きないため、仕事はもちろん食事という栄養摂取も趣味という心の栄養補給も、勉強も人とのコミュニケーションもできない。
ほぼほぼ何もしないまま1日が終わっていく。そして、1日の終わりに何もできなかったことを悔やみながら睡眠とも言えない睡眠をとることになる。
明日は変われると期待しつつも、変われる根拠など皆無に等しい。

うつ病が少し回復してきて、休職から復帰した後もひどい。うつ病はある日突然以前のような気力が湧いてきて何事もバリバリこなすなんてことはない。気力は相変わらず低下したままなので、職場に行って作業して帰って飯食って寝て、次の日職場に行って帰って飯食って寝て、休日は疲れ果てて布団の中で過ごす、職場と自宅を振り子のように行き来するだけでなんの楽しみもなく、仕事以外の生産的な活動もできず、ただただ時間を浪費するだけの日々を送ることになる。

しかし、何も成していないと思う日々も重なってくると、心の奥底、自分でも意識できない深淵で何かが少しずつ蠢いていた。それを実感するのはもう少し後。

転機

人は誰しも創造性を持って生きていると誰かが言った。
何もしない日々を送っていると、この創造性が自分を突き動かす瞬間が突然やってくる。
退屈に飽きた子供がイタズラをするように意味もなく、目的もなく、創造性が暴れ出す。
それが私の場合、珈琲を仕事にしたいというものだった。

その創造性を上手くキャッチできた時、うつ病の長い暗いトンネルに出口の光が見えたように思う。
真っ暗なトンネルだったから進んでいるのか出口が近づいているのかよくわからなかったが、出口の光が見えた時、ようやく壊滅的に無駄だったと思っていた時間も必要な時間できちんと前に進んでいたと気づく。

そこからは創造性に従って1歩踏み出すか、現状を続けるかの2択になるのだと思う。

経験からわかる結論

過ごした時間を有益だったと思うか無益だったと思うかは、後になってみないとわからないということ。そしてその捉え方はなんとでも変化可能ということ。だったら有益だったと思って居たほうが幸せなんじゃないかなと思うのです。

近年、時間を有益に過ごしたいがあまり、タイパという言葉をよく聞く。タイムパフォーマンスの略でコストパフォーマンスの時間版みたいなものだ。
映画を倍速で見たり、講義を要点だけ聞いたりする人も増えているそうだ。
その時点では時間を有益に使えたと思っているかもしれないが、果たしてその行為は自分の創造性を豊かに刺激するのか、倍速で見た映画に感動はあるのだろうか、要点だけを聞いた講義は身につくのだろうかと私は疑問に思っている。
それこそ、結局何も残らない時間を過ごしたなと後になって無益だったと捉えてしまうことになりかねないと私は危惧している。

時間を有益に使ったと自覚することで得られるメリットがもう一つある。
それは自分に満足できるので、他の人がどのように時間を使っているか気にならなくなることだ。
創造性を自分の満足の行く方向に広げている人は他人のことなんてお構いやしない。
自分に満足していない人が、他人が満足になることが嫌で邪魔したくなるというのが私の中の結論で、邪魔してくるやつは自分に満足していなくて、邪魔されたことに腹を立てて嫌味を返すやつも自分に満足できていないのだろうなと思う。

といったところで今回はここまで。
さようなら。

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